学習塾を運営するとは10年前には微塵も想像していませんでした。ましてや、子供たちにITを教える立場になるなんてと、ふと思うことがあります。いわゆる、「100%文系人間」だと信じていましたし、パソコンや算数などの数字は大っ嫌いでした。(若いころは仕入れ値の計算もできないのにレストランの支配人をしていたのですから、笑い話ですよね。。)先日、魂まで震え上がり、その質量や、自分の意識を失いかけるほど体中を支配してこみ上げる感動を経験しました。そしてこの経験をもとにした、私の気持ちや、自分自身が今なぜ子供たちを中心としたスクール運営をしているのか、なぜここまで暑苦しい情熱をささげることができるのか、書いてみようと思い立ちました。私は、中学、高校の担任の先生との出会いが、実は現在の仕事につながっている気がします。中学生の時は「荒れて」いたほうなので、もちろん学校の勉強はダメでした。高校に進学もあきらめ、地元で適当な仕事に就くものだとも思っていましたし、なによりも「やらされること」に幼いころから非常に抵抗がありました。(現在もなお。。)そんなとき、中学2年の担任の先生(笹原先生、お元気ですか?)が、遠くの学校に転勤になることに。兄貴のように慕っていた担任だったので、非常に悲しかった記憶があります。3年生の夏休み、悪友と二人、電車で2時間超、先生を訪ねて遠出しました。今では言えないようなことも、たくさん教えてくれた先生の家に泊まらせてもらい、翌日駅まで送ってもらいました。そして、別れ間際、このように言われたことを忘れていません。「いいか、よく聞け。お前はここにいる場合じゃないんだ。どこでもいい、絶対に進学しなさい。」恥ずかしながら、小学生のころまでは勉強はしなくてもなんでも「できる子」でした。中学生になり、「いじめ」にも逢いましたし、「死にたい」と毎日思うようにもなりました。もちろん、勉強についていけなくなりました。板書きの文字が、文字として認識できないレベルまで、です。中学2年生になったころから、基本的には不登校でした。夜は眠りに着けず、朝までずっと思考を張り巡らしては絶望に浸る日々。唯一、音楽だけが私の救いでした。学校にいけない日も、眠れない時間も、ずっと、本当にひたすら音楽を聴いていました。そんな私を、笹原先生は見捨てず、かといって他の生徒よりも贔屓にすることも全くなく、ずっと見守ってくれていたようです。時すでに遅し、文字通り下から数えたほうが早い成績、残り4か月程度。※よく、「地頭」が良いから勉強できる、成績が良い、悪い という人がいますが、私は全く見当違いだと考えています。踏み出せるかどうか、が最大の力だと信じています。世の中はバブルがはじけ、不景気どん底。仕事に就くには、専門知識や技術か、就職を「後回し」して学ぶしかない時代でした。工業高校や商業高校の倍率が高くなりつつあるころでした。工業高校なら、もしかしてギリギリ入学できるかもしれない、淡い期待値の成績でした。次回に続きます。